2021年05月02日

このトリックを創造した価値

以前批評空間で3-days Marriage ~光源氏の恋人~(Nail)というゲームの感想を書いたとき、同じ源氏物語を下敷きにした作品として薫大将と匂の宮というミステリーに触れたことがあります。
まあ触れたといってもタイトルだけで、3-days Marriage ~光源氏の恋人~が源氏物語とは明らかに違う世界・・・というより源氏物語のアンチテーゼ的な世界観で形成されていて、薫大将と匂の宮をタイトルだけとはいえ例えとして名前をだしてしまったことに、悔いを残した部分はありました。
といって薫大将と匂の宮をぼくが読んだのは相当昔のことで、細部についてあやふやなまま紹介してしまうというのは間違っているしと悶々としていたものですが、なんと創元推理文庫から復刊していたのですね。
創元推理文庫は本屋に行くとコーナーを必ずチェックしているぼくにとって、それに気づいたのがつい最近のことだったというのは、うかつこの上ないのですが、本屋で偶然見つけたときには小躍りしてレジに持っていきました。

さてこの文庫本の解説によると、この薫大将と匂の宮を著者の岡田鯱彦氏が「宝石」誌に発表したのは昭和25年のことで、半世紀どころか70年前。当然ぼくも初出誌で読んだわけがなく、確かまだ中学生か高校生の頃に図書館で読んだと思ったのですが、それがどこの出版社だったのかまったく記憶がありません。ただその時読んだ時、それほど感心しなかった覚えはありました。


(ここからネタバレ)


というのも、この薫大将と匂の宮より少し前にある山上たつひこ氏の喜劇新思想大系を読んでいて、その中のある話(残念ながらタイトルが思い出せない・・・ただ覚えている内容をWikliで調べるととタイトル名から恐らく聖女懐妊ではないかと思われる)が非常に印象に残っていて、その話で犯人が用いたトリックとこの薫大将と匂の宮の犯人のトリックが似通っていたのですね。そしてぼくはその喜劇新思想大系の犯人のトリックに背筋が凍るような思いをしたので、それと比べて薫大将と匂の宮の犯人のトリックがどうも落ちるように思ってしまったのです。
実際、喜劇新思想大系の他の話は全く思い出せないのに対し、この一本だけ(もし聖女懐妊だとすれば前後編となりますが)はいまだにぼくの頭の中にこびりついているのです。それに比べると薫大将と匂の宮のはサスペンス的面白さは感じられませんでした。それで印象が薄くなってしまったということはあります。
ただよく考えると、岡田鯱彦氏が作品を発表したのが昭和25年で、山上たつひこ氏が喜劇新思想大系を発表したのが昭和47年頃ですから、20年以上後のことで、あのトリックを昭和25年当時に発表したこと自体に価値があるということに今になって気づきました。実際このトリックはDNA鑑定が珍しくなくなってきた現代になって、この薫大将と匂の宮のトリックを応用したミステリーが発表されているのを見ると、70年も前に源氏物語の書かれた平安時代を舞台としたミステリーを発表した岡田鯱彦氏の先進性が分かる気がします。


(ここから更にネタバレ)


この薫大将と匂の宮はタイトル名が示すように、源氏物語で光源氏が物語から退場した後のいわゆる「宇治十帖」を題材にし、体から芳香を発するという不思議な特性を持つことから薫と呼ばれる源氏の子(実際の父は柏木では源氏と血の繋がりはない)と、いつも体に香を焚きこめて匂いを放っていることから匂宮と呼ばれる親友の間で起きる怪事件をめぐり、紫式部と清少納言が推理を戦わせるという、国文学者らしい著者しか発想できないミステリーです。匂宮は洛中に知られる色好みの人物で、薫がかつて思いを寄せていた橋姫の妹中君を北の方(妻)にしながら、橋姫の異母妹で薫が大事にしていた浮舟と関係を持ってしまう。ただ匂宮にとって女性を口説くのは人間が呼吸をするようなもので、悪気があってのことでないいうのが質の悪いところで、浮船は薫と匂宮との板挟みに悩み入水してしまう。
このいかにも事件が起きそうな出だしが実は宇治十帖の最終章「夢浮橋」のあらすじですが、実はこの宇治十帖は大団円といったはっきりとした結末を迎えてなく、後年別の複数の作者がその後日談を創作(補作)しているぐらい(らしい)。
この薫大将と匂の宮もそういった補作の一つといえないこともないのです。そしてこの作品の一番大きな謎は、匂宮の愛人たちの寝室に薫の痕跡(芳香)が残っていて、匂宮の追求にも関わらず愛人たちは頑なに浮気を否定する。ただ薫と同じく常人以上に鼻の利く匂宮にとって、女性たちの部屋に薫が出没したのは明白で、女性が嘘をついていると思い込むのです。

ただこのあたりの料理方法については、ぼくの見立てでは喜劇新思想大系の方が上なのですね。喜劇新思想大系では男性と関係していないと訴える女性が、なぜか妊娠してしまうという事件が多発するという謎が主題で、普通なら女性が嘘を言っているとしか思えないでしょう。この不可能味がぼくには非常に新鮮そして犯人の狡知が恐怖にに感じられたのです。
この喜劇新思想大系のトリックを知っていたため、ぼくは犯人はともかく、薫大将と匂の宮のトリックはおおよそ見当が付いてしまいました。だからつい薫大将と匂の宮のトリックは弱いなんてことを不遜にも思ってしまったくらいなのです。
ただよくよく考えてみると、このミステリーの価値はトリックの優劣で語られるものでなく、薫と匂宮という2人の人物設定を用いたトリックを創造したということに価値があるのです。ぼくは源氏物語の造詣が薄いものですから、はっきりと断言できないのですが、いかにも源氏物語の登場人物らしい動きをこのミステリーでしてくれるのですね。これは国文学の第一人者で源氏物語を深く読み込んだ作者だからこそでしょう。もしぼくが源氏物語を深く読み込んでいたとすれば、もっとこのミステリーを楽しめたと思うのですね。
氷室冴子の軽い平安王朝ものとはまた違ったこの本格翻案小説について、もし源氏物語をよく知る人が読んだとしたらどんな感想を持つのか、一度聴いてみたい気もしています。

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